The Fall

メキシコ戦が面白かったので大会初戦のUSA対アルゼンチンも見た。スタンドにはマラドーナ氏がまたユニフォームを着て観戦に訪れており微笑ましかった。代表でメッシが低めの位置から壁パスみたいにして入っていく感じってかなり好きかもしれない。でもこの試合を楽しめたのはむしろUSAの出来の良さによるところが大きかった。前半はアルゼンチンをタイトに締め付けて窒息させる守備が痛快だった。ピンストライプの青いユニフォームは溌剌として爽やかで、ラテンアメリカの濃い顔ぶれの中で見ると際立ってスタイリッシュな印象を受ける。誰が相手でも正義を演じられるアメリカのかっこ良さは悪役としてのアルゼンチンの魅力を引き出しており、ゲームに入れなくて苛立つメッシとかにしても新たなスーパーパワーが立ち向かう旧い秩序を象徴しているように見えて、それもまたキャラクターとして悪くないものだった。あと10年ぐらいでもっとUSAが強くなるといいなと思う。アメリカには現在の停滞と腐敗を打破し、サッカーの世界における新たなオーダー作りに参画して欲しいので、欧州のクラブを買収したりもいいけど代表やMLSのコンテンツ面でもヨーロッパに負けないクオリティのエンターテインメントを産み出してくれることを望みたいです。

アメリカのサッカーといえば昔から読んでるローカル情報紙の記事でこの前面白いものがありました(Seattle Weekly)。シアトルにはSoundersというチームがあって現在USLというマイナーリーグにいるのですが、あまり成績が良くないので現在ホームタウンを探しているMLSフランチャイズを招致しようという動きがあって、その是非を巡りファンの間で揉めているらしい。チームとその伝統への忠誠という先験的なアイデンティティとシアトルのサッカーの将来のために強いチームが欲しいという合理的な考えは、全然違う論理空間に属する話なので議論がかみ合う訳はないんですが、だからこそ傍観者としてはちょっと面白かったりもする。どっちにも肩入れすることなくこれからも経緯を見守って行こうと思います。日本とかにしてもそうなのかもしれないけど、クラブレベルのサッカーやサポーターであるということが自明のことではないので、まずそこから考えなければならないのは不幸な状況に思える。サッカーというのはそれについて語るものではなくそれによって語るもの、それを通じて物事を理解しそれを使って考え表現して行く、世界の見方の言説であり自らの主体を形成する言語みたいなものだと思うので、まるで外国語を覚えるように自意識を介した外的な関係でしかサッカーを見れないのって哀しく思います。そういう意味では、日常生活の中でサッカーファンと話していると文法の正しさを云々するレベルの議論ばかりで、正しくあろうと思えばみんなが画一的で個性の無い同じことを言うしかなくなっていて、それぞれがゲームに何を感じそれが彼にとって何を意味したか、背後にその人の生活が見えてこないのでつまらないと思うことがある。その言語を自分なりのやり方で使って独自の主体を自由に表現し、詩を紡げるようになるのはいつのことなんだろうと考えてしまいます。