End of Summer

8月も終わり、いよいよ夏休み本番という感じですね。僕は暑いのが苦手でずっと夏は嫌いだったのに、最近は夏が終わることに激しい恐怖を感じてしまいます。8月末で加山しょうこが13歳になってしまったことも悲しいです。ここ半年ほどは多分菅谷梨沙子と並んで一番好きだった。僕はどうやら目が離れていて口の大きい女の子が好きらしい。加山しょうこに関しては主に12歳の早熟ボディに魅力を感じていた人が多かったことと思いますが、服を着ているときの彼女も僕は同じくらい好きでした。惜しむらくはデビューが遅かったことかな。急激に女の子になっていく体の成長をできれば10歳、11歳ぐらいから見たかった。でも本当に可愛いです。あのボディが魅力なのも子供っぽい顔と語り口、パーソナリティがあればこそなんだよね。

セクシーさと子供らしさは両方必要なんだろう。例えばBerryz工房DVDマガジンVol.6で梨沙子のことを評して「小学生とは思えない色気」と佐紀ちゃんが言っていた。確かにそうなんだけど、それはあの体で小学生だからこそ、生まれる色気でもあるわけで。いつも言ってる間テクスト性っていうのはそういうことで、性的なものとそれを否定する社会的なテクストの間で揺れ動く意味が少女なんだ。子供のセクスといういわば二律背反の関係構造が引き起こす意味論的な摩擦と緊張、そこに生まれる不安定さと不確定性が、僕等を象徴界の主体から解放してくれる快感の源なので、だから両方ないとだめなんです。どっちかだけじゃだめなんだよね。梨沙子のエロさには、セクシーさと同じぐらいのレベルで存分に残った外見的・内面的な子供っぽさが大きく寄与している。熟れ始めた体を持て余すような幼さ、色っぽい外貌に見合わない知能の低さがあるからこそ、意味を不安定にさせる矛盾が生まれ、あのフィジカルが魅力的になるのです。バカっぽい笑顔に癒される。絵の上手いところも白痴っぽくていい。しまりのない口元には犯罪的な興奮を覚えます。入江紗綾とかがあまり好きになれなかったのって、年齢以外にはあまりにも子供っぽさがなさすぎたところだろうと思う。ビジュアルとして完成しすぎていて形成途上の中間性が感じられず、間テクスト的なダイナミクスを得るには11歳というテクストを外部で常にリロードしておかなければならなかったところが大きなマイナスだったんだ。

サビオラは結局移籍先が決まらなくて、リトマネンみたいな感じになるのかと思うと悲しいです。ファンボメルもデコシャビとはまた違ったトップ下のリズムが楽しかったのでオプションがひとつ減るのは残念だ。『同級生』というゲームが好きだったのですが、それをアニメ化した作品の英語版リリースのタイトルが「End of Summer」でした。あの甘酸っぱい一夏の想い出が懐かしい。やはり夏の終わりにはセンチメンタルになってしまいますね。