If a lion could talk

ハロモニではBerryz工房による新曲のパフォーマンスが秀逸だった。舞波が脱退してから導入された4-3のフォーメーションが好きだ。3人のボーカルの間のスペースを後ろの4人が埋める形は非常にバランスが良く、前列後列が入れ替わる基本の動きもこれだと一層綺麗に見える。桃子/梨沙子/雅は僕の中ではオーフェルマルス/クライフェルト/ゼンデン若しくはオルテガ/バティストゥータ/クラウディオロペスぐらいのスリートップのイメージなので、りさこが中央にいる形が一番落ち着きます。メインコーナーは全国の名物駅弁をめぐってのクイズ大会。こういうのを見るたび娘。メンバーの頭の悪さにかなり引いてしまう。新垣里沙と僕の間の知能の差はたぶん僕とポール・ド・マンの差に等しいぐらいだろう。サッカー日本代表チームカレーを食べながらそう思いました。予想していたより具が多くて美味しかったです。入っていたバッジは10番だった。代表の10番って誰だろう。代表だから固定じゃなくて試合のたびに違う人が着けてるのかな。そう思ってJFAのページでエクアドル戦のメンバーを見たら10とか11とかいなくて37とかがいて吃驚しました。

ガーディアンにちょっと興味深い記事が載っていた(Guardian Unlimited)。エバートンのスタッブス選手が彼のチームメイトにカードを出すようレフェリーに促したリバプールのルイスガルシアを非難して、外国人のプレイヤーがイングランドフットボールに悪い影響を持ち込んでる、みたいなことを言っている:

It's crept into our game lately, but it is a foreign thing. The foreign players have brought a lot of good things to the Premiership but a lot of the other side too. . . . Ask any British player. It's the last thing you want to see, players running up to the ref and shouting for someone to get a yellow or red card. . . . [T]heir foreign players speak good English. It's not as if they don't understand what they're doing. It's not a man thing.

批判の妥当性はさておきプレミアシップって、屈強な男たちがぶつかり合う粗野なバトルの中に、ラテン諸国のリーグに親しんできた人間からは独特に感じられる変な倫理観があるよね。こういうふうに多国籍化によりピッチで異文化が衝突するのっておもしろい。サッカーと言う共通の言語で世界中の人間が理解し合える、みたいな話がよくありますが、サッカーが言語であるならばそれは他の言語と同様、互いの他者性を切り捨てシンボルに変換することにより1つのゲームを表向き成立させているだけで、実際には文化的他者の真の理解を更に阻害するものであるはずだ。言語を通じて他者を理解するのは永遠に不可能だ。そこでは理解は他者性を抑圧することによってなされるからです。同じルールでプレーしていてもそれをどういう風に認識しているかはそれぞれ違う。スペイン人が相手を反則だと言い、イギリス人はその振る舞いを卑怯だと言う。ルールにはそのルールにどのように従うかを教えるルールは含まれない、それは生活様式の範疇でありアクセス不可能な言語外のことなんだ、という言語ゲームの特質を単純にモデル化したこれは例であるようにも思えます。こういう問題って日本ではどうなんだろうとやはり思ってしまう。Jリーグも代表もブラジルからの影響が最も強いみたいだけど、彼らのゲームには日本のサッカー文化独自のモラルというのもあるのだろうか。この前のエジミウソンの行為とかって日本ではどういう評価を受けるのか気になります。悪い意味で利己的になりきれない、消極的なフェアプレー意識がゲームをクリーンに保つことに役立っている部分もあるんでしょうかね。